2013/05/24

The story of PPG(連載第5回)

Part 5 苦難の日々を好転させたクラウス・シュルツとの出会い

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 1977年から1980年にかけてシンセサイザーを導入した音楽が最前線に食い込んでいく。きっかけは"Autobahn"で元祖エレクトロ・ポップのサウンドを確立したドイツのKraftwerkだった。彼らは"Radio-Activity"、"Trans Europe Express"とそのサウンドの完成度を高め認知度を上げていく中で1978年に"Man Machine"という決定的なアルバムを発表した。シンセ・サウンドの音楽面のみならず、ロボットやコンピュータ、電子といった無機的でクールなイメージはファッションや映像にも影響を与え、欧米のクラブを中心に流行に敏感な人々の興味を捕らえた。このような音楽がパーム氏の活動するドイツで最先端の文化として発展したのは興味深い。

 また、ミュンヘン・サウンドと呼ばれて名をはせたイタリア人のGiorgio Moroderのディスコ・サウンドも大きな流れを作った。専用のデジタル・シーケンサーがない頃からモーグ・モジュラーのアナログ・シーケンサーで工夫を凝らしていた。ひとつはオーディオ・データによる同期信号で正確なリズムで駆動する方法。もうひとつはアナログ・ディレイを使って16分音符のフレーズを生み出すこと。それらの機械的なフレーズを支えるKeith Forseyのソリッドなドラミングを武器に、今まで聴いたことのなかったようなデジタルっぽいビートの音楽を生み出していた。代表作がDonna Summerの"I Feel Love"だ。1979年にはRoland MC-8を導入しライブ録音によるデジタル・シーケンスを大フィーチャーした"E=MC2"を発表する。

 このような動向をキャッチして日本でも新しい音楽を生み出そうとした人々がいた。それが言わずと知れたYMOである。はっぴえんどで日本語のロックを追及し、その後はさまざまなセッションやプロデュース・ワークでチャンキー・ミュージックという独自の音楽性にまで達していた細野晴臣。彼の呼びかけで芸大出身で音楽理論に長けた坂本龍一とサディスティック・ミカ・バンドですでに世界を相手にしていた天才ドラマーの高橋幸宏が集結した。1978年に結成されたYMOはKraftwerkの鉄のコンセプトとGiorgio Moroderのわかりやすさに細野のアイデアでMartin Dennyの異国情緒をミックスした完成度の高いテクノポップを生み出す。2度の海外ツアーは欧米の先鋭的なミュージシャンに大きな衝撃を与えてシンセサイザーの可能性を大きく広げることとなった。ライブに大量のシンセサイザーを導入しただけでなく、巨大なモーグ・モジュラーとRoland MC-8で演奏されるシーケンス・フレーズと人間の演奏が完全に同期する。そんな未来のサウンドとパフォーマンスを披露したのである。

 その動きに呼応して日本のメーカーからは安価で安定動作するシンセサイザーが次々と生み出され欧米でも大量に流通し始めていた。特にKORG MS-10、MS-20の販売数は相当な数に達し市場を席巻した。新規の勢力として国産メーカーのKORGやRoland、YAMAHAなどが海外でも地位を確立したのである。画期的な技術アイデアで優れた製品を開発していったパーム氏のPPGもこの頃は営業的に苦戦を強いられる。

 そんな中で小さなビジネス・チャンスをもたらしたのがKlaus Schulzeだった。Tangerine Dreamの創成期メンバーにしてドラムを担当していたSchulzeは、Tangerine Dreamがエレクトロニックな方向に開眼する以前に脱退していた。そして独自の方向性でシンセサイザーを駆使したインプロヴィゼーション主体の壮大な音楽性を確立しつつあった。Schulzeは自身のモーグ・モジュラーを拡張するためにパーム氏を訪問したのである。

 Schulzeは自身の音楽性を確立し、すでに世界的に知名度を上げていた。そこで彼は次のようなコンセプトのシンセサイザー・スクールを開講するプランをパーム氏にもちかけたのである。パーム氏とスタッフ、Schulzeは綿密な打ち合わせを重ねた。そして、シンセサイザーの技術習得のための本格的なカリキュラムが用意され、その内容は専門的でスクールは大きな組織となった。

 カリキュラム習得に必要な楽器はパーム氏の経営するストアから供給することになった。結果、多くのMoog、ARPのモジュラー・シンセサイザーが納品されてパーム氏の営業的危機をを救った。そこを足がかりにパーム氏は自身の経営するストアで安価で優れた日本製のシンセを扱うようになりさらに成功を収めた。そのアイデアは単なる楽器店で無く、シンセサイザーに特化したキーボード・スペシャリスト・ストアと言えるものだったのである。ストアのオープニング・レセプションに現れたSchulzeは、さぞかし満足したに違いない。

 ストアは、午前中は主に専門的なカリキュラムを教えるスクールとして運営された。そして、午後はスペシャリストに対してさまざまなシンセサイザーを販売するストアとして営業していた。時に午前、午後が逆になるスケジュールもあったが昼夜を問わずフル稼働だったのである。そういった環境の中でパーム氏は技術開発も続けていた。

 その頃、パーム氏は最初の夫人と一緒に住む家を購入しようとした。しかし信用保証会社との交渉は難航し建築許可がなかなかおりなかったために家を完成することはできなかった。それなのにパーム氏夫婦は古いアパートを既に引き払ってしまっていたので宿無し状態になってしまったのである!

 スペシャリスト・ストアは昼夜を問わず営業していたので、パーム氏は夫人と相談して店舗の裏側の小さなアパートに住むことにした。売り場の下の地下室にはパーム氏のワークルームが設立されて、そこでパーム氏は一心不乱に技術開発を続けていた。そして2階では最新のシンセサイザーのデモンストレーションを行ったり、日本のメーカーの優れた機材の販売営業をしていた。それは、技術開発のためには必ずしも恵まれた環境ではなかったかも知れない。しかし、外に開かれた環境の中でパーム氏は後のPPGの基礎を築くパートナー達と出会うのである。

 Michael Wehは優秀なプログラマーでPPGの最後の画期的な製品Realizerの開発にも関わることになる。しかし、当時の彼は購入した自身のためのWave Synthesizerと共にクェートで拘束されてしばらく行方不明になってしまった。

 Detlev Paschenは大学で技術方面の学位をとるための勉強をしていた。その傍らでスペシャル・ストアの運営やカリキュラムの作成に尽力した。そして後にはPPGのDigital Synthesizerのサブ・プログラマーとして活躍、やはりRealizerの開発に関わることになる。

 Stu Goldbergはピアニスト、作曲家でドイツ国内で敢行したコンサートですでに有名だった。パーム氏とStuはアメリカを訪問して行ったワークショップで多くのユーザーやバイヤーの関心を集めた。Stuは特別にカスタムされたMoogをパーム氏のショップで購入して素晴らしいテクニックを披露してくれたのである。彼はWaveに夢中で常に肌身離さず地下で一晩中サウンド制作を行うほどだった。
監修:玉山詩人
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「ウェーブテーブル」方式を採用した元祖とも言えるシンセサイザー「PPG」を生み出したWolfgang Palmが、iPad向けに新たに開発した「PPG WaveGenerator」がAppStoreにて販売されています。CCモードを使用すればFirefaceでその緻密なサウンドを完全に再現することが可能です。RMEとPPG、ドイツのマイスター企業の共演を是非お楽しみください。