2013/05/24

The story of PPG(連載第5回)

Part 5 苦難の日々を好転させたクラウス・シュルツとの出会い

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Part 6 CPU世代の大きな夢(シーケンサー) >>
 1977年から1980年にかけてシンセサイザーを導入した音楽が最前線に食い込んでいく。きっかけは"Autobahn"で元祖エレクトロ・ポップのサウンドを確立したドイツのKraftwerkだった。彼らは"Radio-Activity"、"Trans Europe Express"とそのサウンドの完成度を高め認知度を上げていく中で1978年に"Man Machine"という決定的なアルバムを発表した。シンセ・サウンドの音楽面のみならず、ロボットやコンピュータ、電子といった無機的でクールなイメージはファッションや映像にも影響を与え、欧米のクラブを中心に流行に敏感な人々の興味を捕らえた。このような音楽がパーム氏の活動するドイツで最先端の文化として発展したのは興味深い。

 また、ミュンヘン・サウンドと呼ばれて名をはせたイタリア人のGiorgio Moroderのディスコ・サウンドも大きな流れを作った。専用のデジタル・シーケンサーがない頃からモーグ・モジュラーのアナログ・シーケンサーで工夫を凝らしていた。ひとつはオーディオ・データによる同期信号で正確なリズムで駆動する方法。もうひとつはアナログ・ディレイを使って16分音符のフレーズを生み出すこと。それらの機械的なフレーズを支えるKeith Forseyのソリッドなドラミングを武器に、今まで聴いたことのなかったようなデジタルっぽいビートの音楽を生み出していた。代表作がDonna Summerの"I Feel Love"だ。1979年にはRoland MC-8を導入しライブ録音によるデジタル・シーケンスを大フィーチャーした"E=MC2"を発表する。

 このような動向をキャッチして日本でも新しい音楽を生み出そうとした人々がいた。それが言わずと知れたYMOである。はっぴえんどで日本語のロックを追及し、その後はさまざまなセッションやプロデュース・ワークでチャンキー・ミュージックという独自の音楽性にまで達していた細野晴臣。彼の呼びかけで芸大出身で音楽理論に長けた坂本龍一とサディスティック・ミカ・バンドですでに世界を相手にしていた天才ドラマーの高橋幸宏が集結した。1978年に結成されたYMOはKraftwerkの鉄のコンセプトとGiorgio Moroderのわかりやすさに細野のアイデアでMartin Dennyの異国情緒をミックスした完成度の高いテクノポップを生み出す。2度の海外ツアーは欧米の先鋭的なミュージシャンに大きな衝撃を与えてシンセサイザーの可能性を大きく広げることとなった。ライブに大量のシンセサイザーを導入しただけでなく、巨大なモーグ・モジュラーとRoland MC-8で演奏されるシーケンス・フレーズと人間の演奏が完全に同期する。そんな未来のサウンドとパフォーマンスを披露したのである。

 その動きに呼応して日本のメーカーからは安価で安定動作するシンセサイザーが次々と生み出され欧米でも大量に流通し始めていた。特にKORG MS-10、MS-20の販売数は相当な数に達し市場を席巻した。新規の勢力として国産メーカーのKORGやRoland、YAMAHAなどが海外でも地位を確立したのである。画期的な技術アイデアで優れた製品を開発していったパーム氏のPPGもこの頃は営業的に苦戦を強いられる。

 そんな中で小さなビジネス・チャンスをもたらしたのがKlaus Schulzeだった。Tangerine Dreamの創成期メンバーにしてドラムを担当していたSchulzeは、Tangerine Dreamがエレクトロニックな方向に開眼する以前に脱退していた。そして独自の方向性でシンセサイザーを駆使したインプロヴィゼーション主体の壮大な音楽性を確立しつつあった。Schulzeは自身のモーグ・モジュラーを拡張するためにパーム氏を訪問したのである。

 Schulzeは自身の音楽性を確立し、すでに世界的に知名度を上げていた。そこで彼は次のようなコンセプトのシンセサイザー・スクールを開講するプランをパーム氏にもちかけたのである。パーム氏とスタッフ、Schulzeは綿密な打ち合わせを重ねた。そして、シンセサイザーの技術習得のための本格的なカリキュラムが用意され、その内容は専門的でスクールは大きな組織となった。

 カリキュラム習得に必要な楽器はパーム氏の経営するストアから供給することになった。結果、多くのMoog、ARPのモジュラー・シンセサイザーが納品されてパーム氏の営業的危機をを救った。そこを足がかりにパーム氏は自身の経営するストアで安価で優れた日本製のシンセを扱うようになりさらに成功を収めた。そのアイデアは単なる楽器店で無く、シンセサイザーに特化したキーボード・スペシャリスト・ストアと言えるものだったのである。ストアのオープニング・レセプションに現れたSchulzeは、さぞかし満足したに違いない。

 ストアは、午前中は主に専門的なカリキュラムを教えるスクールとして運営された。そして、午後はスペシャリストに対してさまざまなシンセサイザーを販売するストアとして営業していた。時に午前、午後が逆になるスケジュールもあったが昼夜を問わずフル稼働だったのである。そういった環境の中でパーム氏は技術開発も続けていた。

 その頃、パーム氏は最初の夫人と一緒に住む家を購入しようとした。しかし信用保証会社との交渉は難航し建築許可がなかなかおりなかったために家を完成することはできなかった。それなのにパーム氏夫婦は古いアパートを既に引き払ってしまっていたので宿無し状態になってしまったのである!

 スペシャリスト・ストアは昼夜を問わず営業していたので、パーム氏は夫人と相談して店舗の裏側の小さなアパートに住むことにした。売り場の下の地下室にはパーム氏のワークルームが設立されて、そこでパーム氏は一心不乱に技術開発を続けていた。そして2階では最新のシンセサイザーのデモンストレーションを行ったり、日本のメーカーの優れた機材の販売営業をしていた。それは、技術開発のためには必ずしも恵まれた環境ではなかったかも知れない。しかし、外に開かれた環境の中でパーム氏は後のPPGの基礎を築くパートナー達と出会うのである。

 Michael Wehは優秀なプログラマーでPPGの最後の画期的な製品Realizerの開発にも関わることになる。しかし、当時の彼は購入した自身のためのWave Synthesizerと共にクェートで拘束されてしばらく行方不明になってしまった。

 Detlev Paschenは大学で技術方面の学位をとるための勉強をしていた。その傍らでスペシャル・ストアの運営やカリキュラムの作成に尽力した。そして後にはPPGのDigital Synthesizerのサブ・プログラマーとして活躍、やはりRealizerの開発に関わることになる。

 Stu Goldbergはピアニスト、作曲家でドイツ国内で敢行したコンサートですでに有名だった。パーム氏とStuはアメリカを訪問して行ったワークショップで多くのユーザーやバイヤーの関心を集めた。Stuは特別にカスタムされたMoogをパーム氏のショップで購入して素晴らしいテクニックを披露してくれたのである。彼はWaveに夢中で常に肌身離さず地下で一晩中サウンド制作を行うほどだった。
監修:玉山詩人
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「ウェーブテーブル」方式を採用した元祖とも言えるシンセサイザー「PPG」を生み出したWolfgang Palmが、iPad向けに新たに開発した「PPG WaveGenerator」がAppStoreにて販売されています。CCモードを使用すればFirefaceでその緻密なサウンドを完全に再現することが可能です。RMEとPPG、ドイツのマイスター企業の共演を是非お楽しみください。

2013/05/09

The story of PPG(連載第4回)

Part 4 タンジェリン・ドリームとの出会い、そしてDCOの誕生

 70年代中盤、パーム氏はドイツを代表するシンセサイザー・ユニットのメンバーからの連絡を受けることになる。それがタンジェリン・ドリームのクリス・フランケだった。その後のタンジェリン・ドリームとパーム氏の深い関係の始まりである。

 クリス・フランケはパーム氏と会ってエレクトロニック・ミュージックについて、そしてエレクトロ・デバイスのアイデアについて一晩中語り明かした。彼の斬新なアイデアと情熱がパーム氏のクリエイティヴ精神をどれだけ熱くしたかは想像に難くない。

 タンジェリン・ドリームは当時、リーダーのエドガー・フローゼ、クリス・フランケ、ピーター・バウマンの三人で黄金期のトリオを形成していた。1974年に"Phaedra"で本格的にリズミカルなシンセ・フレーズをフィーチャーした現在のトランス・ミュージックの原型となるような独創的なスタイルを確立して大きな評価を受けていた。ムーグ・モジュラー・システムを使用したパーカッシヴなサウンドでいくつもの複雑なシーケンス・ループを生み出して、そこにメロトロンやオルガン、ギターなどで浮遊感のあるインプロヴィゼーションを加える。その斬新なサウンドはジャーマン・プログレッシヴ・ロックにひとつの金字塔を打ち立てたのである。

 タンジェリン・ドリームはサウンド・メイキング上のさらなる可能性を求めていた。クリス・フランケはパーム氏にモーグ・モジュラー・システムのカスタマイズと拡張を依頼した。すでにモーグ・モジュラーのOEM供給を行っていたことがタンジェリン・ドリームの音楽を発展させることに大きく役立ったのである。

 そして、当時のタンジェリン・ドリームのライブで重要な役割を果たしていたピーター・バウマンからは特製のコントローラーの組み込みを依頼された。彼らはコントロール・キーボードに付随するモジュレーション・ホイールに注目していた。これを拡張して8個のモジュレーション・ホイールを搭載したのである。それらが発するコントロール電圧はモーグ・モジュラーの任意のモジュールにパッチングされ、コントロール電圧の幅もノブで自由にコントロールすることができた。現在のシンセサイザーのようにプログラムされた音色を瞬時に呼び出すことができなかった時代、音色のリアルタイム・コントロールはとても重要だった。従って、ノブのみならず、ホイールやレバー、リボン・コントローラーなどモジュレーションをコントロールするデバイスが多ければ、演奏を多彩にできるのである。タンジェリン・ドリームの資金の多くが投資されて彼らの楽器の多くにこの拡張が成された。ちなみにPPGの株をタンジェリン・ドリームが所有しているとか、パーム氏が個人的に彼らを直接サポートしていたというウワサはどうやらガセのようである。

 その後、1976年にパーム氏はアナログ・シンセサイザーの最大の難点を二つ解決する技術を開発した。それは不安定なピッチを正確なピッチに制御するデジタル技術である。アナログ・シンセサイザーのオシレータは温度条件にとても影響を受けやすい。高温となるライブステージで演奏したり、シンセサイザーの回路が発する熱によってピッチが不安定になってしまうのだ。それはモーグ・モジュラー・システムでも同じことである。時には過酷な温度条件が原因となって、演奏中にシンセ・デバイスが停止してしまうことすらあった。一般的には換気をよくしたり冷却用のファンをつけるといった物理的な方法での対応しかなかった。この問題を解決するためにパーム氏はデジタル・オシレータを開発したのである。

 最初にDCO(Digitally Controlled Oscillator=デジタル制御発振器)を搭載したシンセはPPG1024である。デジタル制御によるオシレータはもうひとつの優位性を持っていた。それは従来のアナログ・シンセでは考えられなかった多く種類の波形を供給できることだった。アナログ・コントロールのVCOにおいてはサウンド・スペクトラムを生み出すのに独自の電子回路を生み出す必要がある。従ってノコギリ波、パルス波、三角波といった代表的な波形しか搭載できなかった。ところが波形生成にデジタル技術を採用したことで様々なサウンド・スペクトラムを有する波形を生成することができたのである。

 この時代のシンセサイザーのもうひとつの問題は、プログラムした音色を保存できないことだった。ユーザーはプログラムしたサウンドの設定値を紙とペンでもメモとして書きとめて、作業続行時にメモを頼りに音色を再構築した。ところがアナログ的なノブの設定をメモしただけでは微妙な差異を記録できず同じ音色を再現することはとても困難であった。

 パーム氏はDCOを搭載したPPG1020シリーズをベースに操作ノブを廃したシンセサイザーを開発した。音色プログラミングは内部でデジタルでコントロールされる。ユーザーはノブの替わりにデジタル・プッシュボタンで設定値を直接入力する仕様だった。操作ノブでのプログラミングに比べると自由度は失われる。しかし音色プログラム完全な状態で保存できるという大きなメリットが生まれた。マイクロプロセッサはまだ登場していなかったので、デジタル制御部分は個別のデジタルICの組み合わせで出来ていた。実現はしたものの誤動作を多発する結果となったことは否めない。

 このシンセはPPG1003、"Sonic Carrier"と命名された。その語感からから可搬性の高いコンパクトなシンセをイメージするかも知れないが、パーム氏によればサウンドの保存をして伝達、移動できるという意味を表したのだという。"Sound Carrier"はキーボード付きのスタンドアローン型と音源モジュール型が存在していたが、キーボード・バージョンはかなり大型なボディとなってしまっていた。販売台数は16台と少ないが音色をメモリー保存できる世界初のシンセサイザーだったのである。

 1977年、パーム氏はフランクフルト・メッセに参加する。と言っても、ブースを出展するわけでもなく機材を車に積み込んでドライブするような感覚だった。目的は、PPGモジュラーシステム、コンパクト・シンセサイザーのPPG1003、PPG1020をフランクフルトまでもっていってホテルの部屋で現地のトレーダーやミュージシャンにそれを紹介して営業するためだった。ハンブルグで活動するミュージシャンでPPG1020のオーナーでもあるDetlev Reshoftも同行してくれた。彼のワーゲンにパーム氏の機材が入っていたのである。

 飛び込みに近い形ではあったがパーム氏一行はフランクフルト・メッセに来ていたバイヤーたちにPPGシンセサイザーを紹介して営業をかけることに成功した。興味をもってくれたバイヤーはドイツでの店舗展開を目論見て"Cash and Carry"キャンペーンで市場に参入するタイミングだったので実際にその場でシンセサイザーを購入し店舗に納品した。

 その後、オッフェンブルグの店舗から商品に対する不満のクレームを受けた。その主はWolfgang Durenと言う。今までパーム氏と面識すらなかった彼は、幾日も経たないうちに驚くようなことを提言してきた。それは直接取引を止めて一緒にPPG代理店を開くというプランだった。彼はこちらの返答もままならぬうちにそのプランを実行に移し代理店会社が設立されてしまった。
監修:玉山詩人

「ウェーブテーブル」方式を採用した元祖とも言えるシンセサイザー「PPG」を生み出したWolfgang Palmが、iPad向けに新たに開発した「PPG WaveGenerator」がAppStoreにて販売されています。CCモードを使用すればFirefaceでその緻密なサウンドを完全に再現することが可能です。RMEとPPG、ドイツのマイスター企業の共演を是非お楽しみください。

2013/05/02

CCモード検証レポート第2弾:WaveMachine Labs 『Auria』

CCモード検証レポート第2弾!ということで、話題の本格DAW iPadアプリAuriaを試してみました。

Auriaの詳細情報:http://auriaapp.com/Products/auria
Auriaは、最高96kHzまでのサンプリングレートをサポートし、最大ステレオで48トラックまでの同時再生も可能な、かなり本格的なiPadアプリです。(初代iPadをお使いの場合、最高48kHz、最大24トラックまで)さらに、ミックスエンジンは、64bit浮動小数点処理!と、昨今のプロが使うDAWソフトと比べても遜色の無い品質を有しています。また、マルチバンドEQやコンプ、マスタリング・リミッターもデフォルトで搭載しており、プラグインを別途アプリ内で買い足すことも可能です。
さらにさらに、Auriaは、Pro ToolsやLogic、Nuendo、SamplitudeといったDAWソフトから書き出したAAFファイルのセッションを読み込むことも可能なのです。これはつまり、皆さんが通常使用しているDAWソフトと連携してセッションをやりとりすることが可能だということなんです。
ノートブックPCをお使いの場合ならまだしも、デスクトップPCを自宅のシステムにしている場合など、それを外部に持ち出して録音を行うのは非常に困難で面倒なことです。そういった場合は、iPadにAuriaをインストールし、iPad接続のできるオーディオ・インターフェイスを使えば、モバイル性に優れた録音システムとして使うことができます。
iPadに対応したオーディオ・インターフェイスはいくつかありますが、Auriaのような本格アプリを使うのであれば、音の出入り口にも気を使いたいもの。特に録音においては決定的にオーディオ・インターフェイスの音質が影響しますので、録音をプロフェッショナル・レベルでおこないたい方はRMEのオーディオ・インターフェイスがお勧めです。 

RMEではBabyfaceFireface UCXFireface UFXがそれぞれiPadに対応しており(CCモード対応)一番小型でモバイルにも最適なBabyfaceでも、Auriaで96kHzのハイレゾ録音が可能です。(PC上で通常のDAWソフトなどを使用すればもちろん最高192kHzまで利用可能。) 是非、みなさんも一度iPadにRMEオーディオ・インターフェイスをつなげてリハスタに出向き、マイクを使ったハイレゾ録音にチャレンジしてみてはいかがでしょうか? 44.1kHzや48kHzとは別次元の豊かでリアルな録音は、一度体験する価値アリです。
ということで、今日は、2通りの作業方法をAuriaにて検証してみたいとおもいます。

最初は、DAWなどで事前に作成したドラムとベースのオーディオファイルをAuriaにインポート、つまり、読み込みを行い、それに対してギターアンプやドラムといった通常自宅では扱いにくい生楽器楽器をマイクで収録するという流れを検証してみたいと思います。サンプルレートはもちろん96kHz/24bitです。

今回はDAWにPro Tools 10を使っています。書き出しは、96kHz/24bitのステレオファイルで行います。オーディオファイルのフォーマットはAIFFかWAVのどちらかで行ってください。
書き出されたオーディオファイルは、iTunes経由かDropbox経由でiPad上のAuriaにインポートします。

まず、iPadをPCに接続します。自動的にiTunesが起動すると思います。(起動してこない場合は手動で立ち上げてください。)
① 接続したiPadのメニュー内で「App」を選択してください。
② 画面の下半分に「ファイル共有」というセクションがありますので、そのリストから「Auria」を選択してください。
③ オーディオをインポートするためには、右下の「追加」ボタンをクリックします。

「追加」ボタンを押すと「開く」ウィンドウが表示されますので、ここからオーディオ・ファイルを指定します。ファイルを選択して「開く」ボタンをクリックすると、iPadに選択したオーディオがコピーされます。
④ ファイルのコピーが完了したら最後に「同期」ボタンをクリックします。
※要らないファイルをiPadから削除したい場合は、iTunesの画面からファイルを選択してキーボードから「delete」を押し、最後に「同期」ボタンを押すだけです。
次に、iPad上のAuriaに先ほどコピーしたオーディオを「Import」(インポート)します。
まずAuriaに新規プロジェクトを作成します。 
今回は96KHz(96000)を選択し、トラック数はゼロのままプロジェクトを作成します。
Returnを押すとプロジェクトが作成されます。
次に、新規プロジェクト・ファイルに、オーディオをインポートします。
⑧「Menu」から「Import Audio」を選択してください。
⑨ 画面が切り替わりますので、リストから希望するオーディオを選択します。
「Dest. Track」と書かれた部分は、どのトラックにオーディオをインポートするかを決める部分です。
今回は、トラック0(ゼロ)本で新規プロジェクトを作成しましたので、必然的に、新規トラックを表す「+」が選択されています。既にトラックがある場合は、ここからトラックを指定できます。
最後に「OK」ボタンを押してインポートを終了します。
下記がプロジェクトにオーディオがAuriaにインポートされた状態です。
オーディオ・ファイルがインポートされたら、次にマイクで録音するトラックを作成します。
⑩ 「Menu」から「Add Track」を選択し、表示された「Add Track」ウィンドウにて、トラック数とmono/stereoを指定します。
最後にOKを押すと、プロジェクト上に新規オーディオトラックが作成されます。
⑪ トラックにトラックネームをつけておきましょう。ミキサー表示に切り替え、トラックの一番したの部分をダブルクリック(ダブルタップ)します。
これでプロジェクトの準備は完了です。
次は、使用するRMEオーディオ・インターフェイスをiPadモード、つまり「CCモード」に設定します。CCモードの設定はインターフェイスによって異なります。
詳しくは、下記のページに解りやすい解説ビデオが用意していますので、そちらを参考にしてください。
次に、使用するRMEオーディオ・インターフェイスをApple Camera Connection Kitを使用してiPadに接続します。
⑫ マイクをRMEオーディオ・インターフェイスに接続し、Auria上にて入力チャンネルを設定します。
※コンデンサーマイクを使用する場合は、RMEインターフェイスから48Vファンタム電源を送る必要があります。各インターフェイスの48Vファンタム電源のオン/オフとゲインの調整は下記のビデオの通りです。

Babyface

Fireface UCX
UCXはフロントパネルからファンタム電源のオン/オフができないため、事前にTotalMix上にてSetupを保存しておく必要があります。詳しくはこちらのビデオをご覧ください。

Fireface UFX

これで、インターフェイスのマイクの設定は完了ですので、あとは、Auriaの録音ボタンを押して、録音を開始するだけです!
※ADATケーブルで接続できるマイクプリなどを使えば、一度に8本以上のマイクをつなげての生ドラムの収録も可能ですし、バンドメンバー全員の一斉録音を行う事も可能です。ADAT搭載のマイクプリは様々なメーカーから発売されていますが、例えばRMEの製品ですと下記「OctamicII」などがそれにあたります。
次に、AAFファイルのインポートを試してみたいと思います。まず、DAWソフトウェアから、AAFフォーマットでセッション・ファイルを書き出します。

※Auriaは日本語のファイル名を認識することができません。保存する際に英数半角でファイル名を入力してください。

ここではPro Toolsを使っていますが、Logic、Nuendo、Samplitudeといった多くのDAWソフトがAAFファイルでのセッションの書き出しに対応しています。AAFの書き出しに関して詳しくは、お使いのDAWソフトのサポートにご確認ください。
Auriaでの、AAFファイルを読み込みは、オーディオ・インポートの時と同じく、iTunes経由、もしくはDropbox経由で行うことができます。

今回は誰でも使用することができるiTunesで試してみます。

まず、書き出されたAAFファイルとオーディオファイルを同じ階層に保存し、Zipで圧縮してください。

※この部分は非常に重要です。階層が分かれていたり、フォルダごと圧縮するとAuriaで認識が取れませんので注意してください。

圧縮したZipファイルを、先ほどのオーディオ・ファイルと同じ要領で、iPad上のAuriaに転送します。(手順 ①〜④)

転送が完了すると、Auriaが自動的に、Zipファイルを解凍します。

そうしましたら、「Menu」から「AAF File>Import AAF File」を選択し、リスト画面上にてインポートしたAAFファイルを選択して完了です。

※DAWソフト上でステレオ・トラックだったものは、すべてモノ・ファイルに分割されます。また、オートメーションも読み込めませんし、当然ながらプラグインなども読み込めません。したがって、AAFにて書き出す前に、ある程度セッションを調整してから書き出すことをお勧め致します。

録音を終了したら、最後に、オーディオ・ファイル、またはAAFファイルをAuriaから書き出します。

オーディオ・ファイルの書き出し:
Auriaには、オーディオ・ファイルのインポートという機能はありますが、エクスポート(書き出し)という機能はありませんので、代わりに「Mixdown」という機能を使いオーディオ・ファイルを書き出します。

まず、書き出すファイルに含みたくないトラックをミュート、もしくは、トラックを選択して「Edit」メニューから「Delete Track」を選択します。
そして、ミックスダウンを行います。
ミックスダウンされたファイルは、iPadをPCに接続すると、iTunesの「App」のリストに表示されますので、後はファイルを選択して保存するだけです。

AAFファイルの書き出し:
「Menu」から「AAF File>Export AAF File」を選択。 書き出すAAFファイルに名前を付けて書き出しを実行するだけです。
書き出されたAAFファイルは、iTunesの「App」のリストに表示されますので、後はファイルを選択して保存するだけです。
以上、いかがでしたでしょうか?

iPadで本格レコーディングが可能なAuria。iPadアプリとしては少々高めですが、その価値は十分あるのがお分かりいただけたと思います。

そして、96kHz対応のAuriaのスペックを最大限に引き出すためには、高い音質を誇るRMEのオーディオ・インターフェイスが最良の選択と言えると思います。

皆様も是非、AuriaとRMEのコンビネーションでハイレゾ録音を試してみてはいかがでしょうか?

The story of PPG(連載第3回)

Part 3 創意と工夫が独自のシンセサイザーを生み出す!

 1971年にウォルフガング・パームは大学を卒業した。同じ頃、学生時代に彼が組んでいた最後のバンドも解散した。パーム氏はシンセサイザーを用いたエレクトリックな音楽の追求に興味があった。それに対してドラマーはロック系の音楽を指向していた。いわゆる「音楽性の不一致」である。パーム氏は以前Mini Moogを貸し出してくれたOkko Bekker氏と共にシンセサイザーを使った音楽を作っていく道もあった。確かに、当時はまだ二人組みだったKraftwerkが指向していたような音楽をやっていくのはとても魅力的だった。しかし、彼の情熱はバンド解散とともにシンセサイザーそのものを開発、生産することに向けられたのである。

 パーム氏の工房=PPGが生産したシンセには優れた技術がいくつもあった。まずは価格である。Mini Moogは当時約8000ドイツマルクで販売されていた。ところがパーム氏のコンパクト・シンセサイザーは2000ドイツマルクと破格で販売できるものだった。Mini Moogと同様の機能を持つシンセが4分の1の価格で実現できたのは驚異的で評判は急速に広まっていった。

 また、パーム氏はモーグ・モジュラーやアープ・モジュラーのパッチコードのしくみについても魅了されていた。パッチコードがあれば、音程、音色、音量に対するコントロール信号を自在にアサインできるので音作りの幅は広がる。しかし、Mini Moogでは音作りよりも演奏のしやすさに重きが置かれた設計であったためにパッチングのシステムは排除されていた。シンセサイザーの各モジュールはノーマルな状態で内部結線されていたのである。

 パーム氏はコンパクトサイズのシンセサイザーにパッチング機能を搭載するために、驚くべきアイデアを盛り込んだ。それはパッチ・ケーブルをシンセサイザーのボディ・シャーシの中に格納してしまうというアイデアだ。シャーシから引き抜いたケーブルをシンセサイザーの各モジュールに付属するジャックに自由にアサインする。そしてMini Moogでは不可能な信号の流れを生み出してトリッキーな変調を加えることができる。パッチをしないケーブルは本体のボディ・シャーシ内に機械的に引き込まれて邪魔にならない。これはその時代ならではの画期的なアイデアだった。

 さらに進化したモデルPPG1012では、パッチ・ケーブルに替わって頻繁にパッチングをする部分をスイッチで簡単に接続、変更を行えるようになった。この考え方はその後に登場するS.C.I. Prophet-5のポリ・モジュレーションやOberheim Matrixシリーズのモジュレーション・マトリクスの考えに近いものである。

 一方、パーム氏はモジュラー型のシンセを開発したり、オルガンのオーディオ信号を変換してシンセサイザーを演奏する技術を発展させて管楽器やギターで同様のコントロールをするピッチ-電圧コンバーターも開発した。管楽器用のものはKlaus DoldingerやCharly Marianoといった何人かのプロミュージシャンに試用されたが、ピッチ追従の速度が遅く満足な演奏をするのは困難で彼の期待をやや外してしまった。ギター用のものはToto Blankeが使用した。彼は"Electric Circus"においてそのポテンシャルを充分に発揮して素晴らしい演奏を記録した。これはギター・コントローラーによるパーム氏のシンセサイザー・サウンドの代表格と言っていい。実際にパーム氏はレコーディング・セッションの現場でToto Blankeがギター・コントローラーでPPGモジュラー・システムをトリッキーに演奏するテクニックをみて感銘を受けた。少し後になってからではあるが、Toto Blankeのセッションに参加したオランダのピアニスト、キーボード奏者Jasper van't Hofが展示中のPPGモジュラー・ユニットを実演したのを知ることになる。それはパーム氏の開発者としてのスピリットを奮わせる喜びだった。

 また、これらの開発と同時にパーム氏はモーグ・モジュラー・システムへの組み込みパーツの開発も開始した。それは彼は自分自身でモーグ・モジュラーを所有したいという欲求を満たす一石二鳥の開発でもあった。PPGで開発されたモジュールはそれ以降のモーグ・モジュラーの全てのシステムに組み込まれていった。

 パーム氏の工房=PPGはパーム氏と正社員、パートタイマーで構成されていたが従業員が少ない小さい会社だった。エレベーターもない建物の5階の古いメカニックワークショップの中にあり暖房といえば古いストーブしかない。そのため賃料も安かった。コンパクトサイズのシンセサイザーは安価で高性能であったためよく売れていた。モジュラー・システムも台数は多くなかったが販売できた。おかげで経営は堅調だった。パーム氏は取引の幅を広げるためにドイツ内でモーグのディーラーでセールスをしていたHeinz Funkにコンタクトをとった。彼は非常に真面目でパーム氏よりも年長者でもあったので放送局や映画会社とのつながりを作ってくれたのである。

 その頃、アメリカではモーグ純正のモジュラー・システムの生産は終了していた。日本のシンセ・メーカーもコンパクトサイズ、モジュラー・システムのシンセサイザーを次々と開発していた。RolandのSystem 700シリーズ、SHシリーズ、KORGのPSシリーズ、MSシリーズ、そしてYAMAHAのCSシリーズなどだ。これらはみな安定した動作を安価な価格設定で実現していた。そんな状況を踏まえモーグ博士はライブで威力を発揮する完全ポリフォニック・シンセサイザーのPolymoogの開発に集中したかったのかも知れない。モーグ純正のモジュラー・シンセサイザーが作られない中でPPGの生産したモジュラーは重宝された。Funk氏とのつながりはこれらの取引の中で信頼を高めていったのである。

 そんな状況の中で、パーム氏は前述のFunk氏から劇場から受注した仕事のヘルプを求められた。シンセの外装キャビネットや電源、幾つかのモジュールの最終組み立てといった作業である。電源やモジュールの開発はPPG工房内でこなすことができたが、外装の木製コンソールは大工職人の手によってPPGの工房内で作られた。それはとても立派な代物だったがユーザーに納品しなければならない。エレベーターのない5階の工房からどうやって運ぶかが問題だった。PPG工房の建物の外に、古い倉庫で重量物も持ち上げるのに使われていたウィンチが設置されていた。工房で生産した商品を運搬するために使っていたものだがロープと組み合わせてこれを使うしかなかった。Funk氏の同僚が酷く心配そうな目で見守る中してなんとかクリアすることができた。

 パーム氏の創意と工夫、そして数々の人との出会い、さらには時代の流れに乗ることでPPGの小さな工房は確実に名を広めていったのである。
監修:玉山詩人
参考音源
Toto Blanke "Electric Circus"
Bellaphon (Germany) 1976
Jasper Van't Hof "The Selfkicker"
MPS Records (Germany) 1976

「ウェーブテーブル」方式を採用した元祖とも言えるシンセサイザー「PPG」を生み出したWolfgang Palmが、iPad向けに新たに開発した「PPG WaveGenerator」がAppStoreにて販売されています。CCモードを使用すればFirefaceでその緻密なサウンドを完全に再現することが可能です。RMEとPPG、ドイツのマイスター企業の共演を是非お楽しみください。