Part 3 創意と工夫が独自のシンセサイザーを生み出す!
1971年にウォルフガング・パームは大学を卒業した。同じ頃、学生時代に彼が組んでいた最後のバンドも解散した。パーム氏はシンセサイザーを用いたエレクトリックな音楽の追求に興味があった。それに対してドラマーはロック系の音楽を指向していた。いわゆる「音楽性の不一致」である。パーム氏は以前Mini Moogを貸し出してくれたOkko Bekker氏と共にシンセサイザーを使った音楽を作っていく道もあった。確かに、当時はまだ二人組みだったKraftwerkが指向していたような音楽をやっていくのはとても魅力的だった。しかし、彼の情熱はバンド解散とともにシンセサイザーそのものを開発、生産することに向けられたのである。
パーム氏の工房=PPGが生産したシンセには優れた技術がいくつもあった。まずは価格である。Mini Moogは当時約8000ドイツマルクで販売されていた。ところがパーム氏のコンパクト・シンセサイザーは2000ドイツマルクと破格で販売できるものだった。Mini Moogと同様の機能を持つシンセが4分の1の価格で実現できたのは驚異的で評判は急速に広まっていった。
また、パーム氏はモーグ・モジュラーやアープ・モジュラーのパッチコードのしくみについても魅了されていた。パッチコードがあれば、音程、音色、音量に対するコントロール信号を自在にアサインできるので音作りの幅は広がる。しかし、Mini Moogでは音作りよりも演奏のしやすさに重きが置かれた設計であったためにパッチングのシステムは排除されていた。シンセサイザーの各モジュールはノーマルな状態で内部結線されていたのである。
パーム氏はコンパクトサイズのシンセサイザーにパッチング機能を搭載するために、驚くべきアイデアを盛り込んだ。それはパッチ・ケーブルをシンセサイザーのボディ・シャーシの中に格納してしまうというアイデアだ。シャーシから引き抜いたケーブルをシンセサイザーの各モジュールに付属するジャックに自由にアサインする。そしてMini Moogでは不可能な信号の流れを生み出してトリッキーな変調を加えることができる。パッチをしないケーブルは本体のボディ・シャーシ内に機械的に引き込まれて邪魔にならない。これはその時代ならではの画期的なアイデアだった。
さらに進化したモデルPPG1012では、パッチ・ケーブルに替わって頻繁にパッチングをする部分をスイッチで簡単に接続、変更を行えるようになった。この考え方はその後に登場するS.C.I. Prophet-5のポリ・モジュレーションやOberheim Matrixシリーズのモジュレーション・マトリクスの考えに近いものである。
一方、パーム氏はモジュラー型のシンセを開発したり、オルガンのオーディオ信号を変換してシンセサイザーを演奏する技術を発展させて管楽器やギターで同様のコントロールをするピッチ-電圧コンバーターも開発した。管楽器用のものはKlaus DoldingerやCharly Marianoといった何人かのプロミュージシャンに試用されたが、ピッチ追従の速度が遅く満足な演奏をするのは困難で彼の期待をやや外してしまった。ギター用のものはToto Blankeが使用した。彼は"Electric Circus"においてそのポテンシャルを充分に発揮して素晴らしい演奏を記録した。これはギター・コントローラーによるパーム氏のシンセサイザー・サウンドの代表格と言っていい。実際にパーム氏はレコーディング・セッションの現場でToto Blankeがギター・コントローラーでPPGモジュラー・システムをトリッキーに演奏するテクニックをみて感銘を受けた。少し後になってからではあるが、Toto Blankeのセッションに参加したオランダのピアニスト、キーボード奏者Jasper van't Hofが展示中のPPGモジュラー・ユニットを実演したのを知ることになる。それはパーム氏の開発者としてのスピリットを奮わせる喜びだった。
また、これらの開発と同時にパーム氏はモーグ・モジュラー・システムへの組み込みパーツの開発も開始した。それは彼は自分自身でモーグ・モジュラーを所有したいという欲求を満たす一石二鳥の開発でもあった。PPGで開発されたモジュールはそれ以降のモーグ・モジュラーの全てのシステムに組み込まれていった。
パーム氏の工房=PPGはパーム氏と正社員、パートタイマーで構成されていたが従業員が少ない小さい会社だった。エレベーターもない建物の5階の古いメカニックワークショップの中にあり暖房といえば古いストーブしかない。そのため賃料も安かった。コンパクトサイズのシンセサイザーは安価で高性能であったためよく売れていた。モジュラー・システムも台数は多くなかったが販売できた。おかげで経営は堅調だった。パーム氏は取引の幅を広げるためにドイツ内でモーグのディーラーでセールスをしていたHeinz Funkにコンタクトをとった。彼は非常に真面目でパーム氏よりも年長者でもあったので放送局や映画会社とのつながりを作ってくれたのである。
その頃、アメリカではモーグ純正のモジュラー・システムの生産は終了していた。日本のシンセ・メーカーもコンパクトサイズ、モジュラー・システムのシンセサイザーを次々と開発していた。RolandのSystem 700シリーズ、SHシリーズ、KORGのPSシリーズ、MSシリーズ、そしてYAMAHAのCSシリーズなどだ。これらはみな安定した動作を安価な価格設定で実現していた。そんな状況を踏まえモーグ博士はライブで威力を発揮する完全ポリフォニック・シンセサイザーのPolymoogの開発に集中したかったのかも知れない。モーグ純正のモジュラー・シンセサイザーが作られない中でPPGの生産したモジュラーは重宝された。Funk氏とのつながりはこれらの取引の中で信頼を高めていったのである。
そんな状況の中で、パーム氏は前述のFunk氏から劇場から受注した仕事のヘルプを求められた。シンセの外装キャビネットや電源、幾つかのモジュールの最終組み立てといった作業である。電源やモジュールの開発はPPG工房内でこなすことができたが、外装の木製コンソールは大工職人の手によってPPGの工房内で作られた。それはとても立派な代物だったがユーザーに納品しなければならない。エレベーターのない5階の工房からどうやって運ぶかが問題だった。PPG工房の建物の外に、古い倉庫で重量物も持ち上げるのに使われていたウィンチが設置されていた。工房で生産した商品を運搬するために使っていたものだがロープと組み合わせてこれを使うしかなかった。Funk氏の同僚が酷く心配そうな目で見守る中してなんとかクリアすることができた。
パーム氏の創意と工夫、そして数々の人との出会い、さらには時代の流れに乗ることでPPGの小さな工房は確実に名を広めていったのである。
パーム氏の工房=PPGが生産したシンセには優れた技術がいくつもあった。まずは価格である。Mini Moogは当時約8000ドイツマルクで販売されていた。ところがパーム氏のコンパクト・シンセサイザーは2000ドイツマルクと破格で販売できるものだった。Mini Moogと同様の機能を持つシンセが4分の1の価格で実現できたのは驚異的で評判は急速に広まっていった。
また、パーム氏はモーグ・モジュラーやアープ・モジュラーのパッチコードのしくみについても魅了されていた。パッチコードがあれば、音程、音色、音量に対するコントロール信号を自在にアサインできるので音作りの幅は広がる。しかし、Mini Moogでは音作りよりも演奏のしやすさに重きが置かれた設計であったためにパッチングのシステムは排除されていた。シンセサイザーの各モジュールはノーマルな状態で内部結線されていたのである。
一方、パーム氏はモジュラー型のシンセを開発したり、オルガンのオーディオ信号を変換してシンセサイザーを演奏する技術を発展させて管楽器やギターで同様のコントロールをするピッチ-電圧コンバーターも開発した。管楽器用のものはKlaus DoldingerやCharly Marianoといった何人かのプロミュージシャンに試用されたが、ピッチ追従の速度が遅く満足な演奏をするのは困難で彼の期待をやや外してしまった。ギター用のものはToto Blankeが使用した。彼は"Electric Circus"においてそのポテンシャルを充分に発揮して素晴らしい演奏を記録した。これはギター・コントローラーによるパーム氏のシンセサイザー・サウンドの代表格と言っていい。実際にパーム氏はレコーディング・セッションの現場でToto Blankeがギター・コントローラーでPPGモジュラー・システムをトリッキーに演奏するテクニックをみて感銘を受けた。少し後になってからではあるが、Toto Blankeのセッションに参加したオランダのピアニスト、キーボード奏者Jasper van't Hofが展示中のPPGモジュラー・ユニットを実演したのを知ることになる。それはパーム氏の開発者としてのスピリットを奮わせる喜びだった。
また、これらの開発と同時にパーム氏はモーグ・モジュラー・システムへの組み込みパーツの開発も開始した。それは彼は自分自身でモーグ・モジュラーを所有したいという欲求を満たす一石二鳥の開発でもあった。PPGで開発されたモジュールはそれ以降のモーグ・モジュラーの全てのシステムに組み込まれていった。
パーム氏の工房=PPGはパーム氏と正社員、パートタイマーで構成されていたが従業員が少ない小さい会社だった。エレベーターもない建物の5階の古いメカニックワークショップの中にあり暖房といえば古いストーブしかない。そのため賃料も安かった。コンパクトサイズのシンセサイザーは安価で高性能であったためよく売れていた。モジュラー・システムも台数は多くなかったが販売できた。おかげで経営は堅調だった。パーム氏は取引の幅を広げるためにドイツ内でモーグのディーラーでセールスをしていたHeinz Funkにコンタクトをとった。彼は非常に真面目でパーム氏よりも年長者でもあったので放送局や映画会社とのつながりを作ってくれたのである。
その頃、アメリカではモーグ純正のモジュラー・システムの生産は終了していた。日本のシンセ・メーカーもコンパクトサイズ、モジュラー・システムのシンセサイザーを次々と開発していた。RolandのSystem 700シリーズ、SHシリーズ、KORGのPSシリーズ、MSシリーズ、そしてYAMAHAのCSシリーズなどだ。これらはみな安定した動作を安価な価格設定で実現していた。そんな状況を踏まえモーグ博士はライブで威力を発揮する完全ポリフォニック・シンセサイザーのPolymoogの開発に集中したかったのかも知れない。モーグ純正のモジュラー・シンセサイザーが作られない中でPPGの生産したモジュラーは重宝された。Funk氏とのつながりはこれらの取引の中で信頼を高めていったのである。
そんな状況の中で、パーム氏は前述のFunk氏から劇場から受注した仕事のヘルプを求められた。シンセの外装キャビネットや電源、幾つかのモジュールの最終組み立てといった作業である。電源やモジュールの開発はPPG工房内でこなすことができたが、外装の木製コンソールは大工職人の手によってPPGの工房内で作られた。それはとても立派な代物だったがユーザーに納品しなければならない。エレベーターのない5階の工房からどうやって運ぶかが問題だった。PPG工房の建物の外に、古い倉庫で重量物も持ち上げるのに使われていたウィンチが設置されていた。工房で生産した商品を運搬するために使っていたものだがロープと組み合わせてこれを使うしかなかった。Funk氏の同僚が酷く心配そうな目で見守る中してなんとかクリアすることができた。
パーム氏の創意と工夫、そして数々の人との出会い、さらには時代の流れに乗ることでPPGの小さな工房は確実に名を広めていったのである。
監修:玉山詩人
参考音源
Toto Blanke "Electric Circus"
Bellaphon (Germany) 1976
Jasper Van't Hof "The Selfkicker"
MPS Records (Germany) 1976
Bellaphon (Germany) 1976
Jasper Van't Hof "The Selfkicker"
MPS Records (Germany) 1976
「ウェーブテーブル」方式を採用した元祖とも言えるシンセサイザー「PPG」を生み出したWolfgang Palmが、iPad向けに新たに開発した「PPG WaveGenerator」がAppStoreにて販売されています。CCモードを使用すればFirefaceでその緻密なサウンドを完全に再現することが可能です。RMEとPPG、ドイツのマイスター企業の共演を是非お楽しみください。